「和食ではんなり」by和食マイスター養成講座

2015年3月13日

「牡丹」に「桜」 肉食のはなし

三寒四温のうちに、季節は寒い冬から春へと移りつつあるようですが、寒い時期には「鍋」を囲む機会も多かったのではないでしょうか。昔の家庭では、台所にある竈(かまど)とは別に囲炉裏があり、そこで煮炊きをすることも多かったようですが、江戸時代以降には囲炉裏のない町屋や料理屋で火鉢などを使用した少人数用の鍋料理が提供され、現代にみられる鍋料理が発達したようです。今ではカセットコンロの発明と普及により、家庭でも様々な鍋料理が食べられるようになりました。

少し前になりますが、昨年暮れに家庭では食べる機会のほとんどない鍋料理 桜鍋(馬肉鍋)、山くじら鍋(猪鍋:牡丹鍋とも)をいただく機会がありました。
これらの鍋、今では専門店でしか味わうことができませんが、江戸時代には「ももんじ屋」と呼ばれる獣肉専門店があり繁盛したようです。「ももんじ」とは百獣のことで四足の獣肉を扱うお店を総称してそのように呼ばれました。ただ、肉食禁忌が強かった時代のこと、獣肉は「薬」のひとつとして認識していたようです。(馬肉を桜、猪肉を牡丹または山くじら、鹿肉を紅葉など隠語で呼んでいたことからもその様子がうかがえます。)

先日伺ったのは両国に9代続いている猪鍋のお店、名前もまさに 「もヽんじや」さん。
現在東京に残る唯一のももんじ屋として正式な店名は「もヽんじやの豊田屋」といい、もとは漢方の薬屋でしたが、薬の一種として出した猪が人気商品となり、料理店へ転身しました。昔から猪の肉は、冷え性や疲労回復に効果があり、肉食が禁じられた江戸時代でも「山くじら」と称して食べられていました。こちらの猪鍋は味噌仕立てのすき焼で、猪肉は赤身と脂身が固めでしっかりとした歯ごたえ、やはり薬といわれただけにとても滋味深い味わいでした。

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両国「もヽんじや」さん。日本橋側から両国橋を渡ると黄金の猪が目に飛び込んできます。

もう一軒が深川森下にある「みの家」さん。
昭和20年代に建てられた風情ある木造建築の店内にはステンレスの長机が並び、鍋を挟んで向かい合い他のお客さんと隣同士に座る「入れ込み式」とよばれる席は下町情緒たっぷり。
馬肉は、高たんぱく、低脂肪、低カロリーで体内ですぐにエネルギーとなるグリコーゲンを多く含み、冬は体を温め、夏は夏バテ防止に効果があるようです。赤身の馬肉はそれ自体はさっぱりとした味ですが、八丁味噌と江戸甘味噌を合わせた味噌だれと醤油ベースの割下で、濃い目の味がよく滲みたお麩とネギがとてもよく合います。

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深川「みの家」さんのさくら鍋。銅鍋にも桜の意匠。

ところで、今でこそ日本人は肉食を好みますが、そもそも日本ではいつごろから肉食が盛んになったのでしょう。
古代から(家畜でなく)主に狩猟を通じて肉食の食習慣はあったようですが、西暦675年に天武天皇により初めての肉食禁止令が出されてから明治天皇が1872年1月24日(今半ではこの日を牛肉記念日としています)に初めて牛肉を試食されるまでの約1200年もの間、日本は表向きは肉抜きの食文化だったことになります。それでも様々な形で肉食は継続されたようで、江戸時代の俳句には「薬喰(くすりぐい)」という季語もあるように薬として食されており、「忠臣蔵」で有名な大石内蔵助は、堀部安兵衛の父・弥兵衛に「大変滋養があるので」と牛肉を贈っています。また、徳川御三家に年に一度、彦根藩の井伊家から近江牛の味噌漬を献上したそうです。明治時代になると、牛肉を食べることが文明開化の象徴と考えられ、牛肉を使ったすき焼き(牛鍋)が流行するなど肉食が旺盛になりますが、肉の消費量が魚のそれを上回るのは戦後のことのようです。

現在では当たり前の肉食、高度成長期前まではお肉は特別の日の食べものだったと聞きます。今でもすき焼きやステーキはちょっとしたお祝いや大勢で集まる際の料理という感覚は残っているようで、レシピサイトのクックパッドでは年末の最終週に検索数が急増するキーワードの一つが「すき焼き」だそうです。
日本人の肉食もその変遷はあれど、意外に古くから旺盛だったようです。

ジュニア和食マイスター
宮田麻子

参考文献
江戸の食文化: 和食の発展とその背景 著者: 原田信男
日本の食べものよもやま話 著者:矢島せい子
美味しい日本史<秋冬篇> 絵とレシピで味わう和食材「こぼればな史」 著者: 小田真規子、菱沼一憲

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